わが子を「大人」にするために。〜成人の日に寄せて〜

三連休の最終日の本日は「成人の日」でした。

 

私もそうですが、

お父さま、お母さま世代からしても、

「成人の日」は、新成人に向けた式典である「成人式」がある日、というイメージがあることでしょう。

 

ところが、

今年度から、民法改正で成人年齢が18歳に引き下げになっています。

(この点は、今年の中学受験あたりでは選択問題で触れたくなるところでもあるでしょう。)

 

各地の動向を見る限り、

どうやら、法的には18歳で成人、ということですが、

「成人式」は、従来どおり、今年度で20歳になる(なった)人を対象に実施されているところが多いみたいです。

(「成人式」という名称が「はたちの集い」といった名称に変更となっていたりもするようです。)

 

 

「成人式」の企画・運営については、各自治体に判断が委ねられているので、

来年、再来年、と年が進むにつれて、

「成人式」の対象年齢にバラつきが生じてくるといった可能性も、あるのかもしれません。

 

そうすると、全国から20歳が集まっている大学のコミュニティなどでは、

「誰々は今年成人式があるけど、誰々はもう成人式は終わっている」といったことにもなるのでしょうか。

 

なんとなく、ややこしい気がします。

 

 

そもそも、18歳というと高校3年生。

成人の日は、大学受験の「完全なる直前期」です。

 

もし、18歳を対象に成人式が実施されたとしたら、

大学受験生の多くは、参加を見送ることとなるでしょう。

(式典の運営スタッフを参加者から募っていた場合、スタッフが集まらないで大変かもしれません。)

 

「同窓会」も、実施されないかもしれません。

(飲酒・喫煙は従来通り20歳にならないとできるようになりません。)

 

 

こうした事情を考えると、

「成人式」に関しては、名称を変えても、20歳を対象に実施される流れが主流になるのではないか、というのが個人的な予測です。

 

 

私たちは、いつ「大人」になるのか。

 

成人式の対象年齢を考えるついでに、

「大人」になる時期についても、考えてみました。

 

 

その昔は、「大人」となるタイミングは「元服」のタイミングでした。

 

「元服」という通過儀礼を通して、自身が「大人」となることを自覚したのでしょうし、

周囲の人からも、元服を機に一転「大人」として扱われるようになったことでしょう。

 

 

「大人」と「子ども」の間に、明確な線引きがなされていたのが、かつての日本社会だったのかもしれません。

 

 

ひるがえって、現代。

私たちが、自らを「大人になった」と感じるのは、どのタイミングなのでしょうか。

 

満18歳の誕生日に、法的に責任能力が備わったからといって、

即座に「大人になった」ということを実感するのは、なかなか難しいかもしれません。

 

これまでは、「成人式」というイベントが、

ある種の通過儀礼として「元服」に代わる役割を果たしていた部分も、

多少なりともあったかもしれません。

 

あるいは、人によっては、

飲酒や喫煙をできるようになった時に、「大人になった」と感じた方もいることでしょう。

 

 

そうすると、

18歳成人のルールが適用されている現代において、

「大人になった」ことを実感するのは、法的に成人するタイミングとは数年のタイムラグがあるということにもなるでしょう。

 

 

むしろ、「法的な成人」と「大人」の間のギャップは、2年やそこらではないかもしれません。

 

成人年齢が20歳であった我々の世代でも、

20歳の年が、「大人になった」ことを実感できた年だったかというと、

そこには、微妙な感覚のズレがあったようにも思えてなりません。

 

 

「大人になる」ことの要件を考えると、

そこには、精神的・経済的な「自立」があるのではないかと感じるからです。

 

これは、法的な責任能力うんぬんとは、また別軸の話です。

 

 

例え、意識の上では成人して「自立した大人」を名乗っていても、

現実に、精神的・経済的な「自立」を果たすまでには、さらに数年の期間を要するような気もします。

 

 

周囲の存在が、この「自立」を阻む方向に作用している、といったこともあるでしょう。

 

法的な成人年齢は引き下げられましたが、

社会が、若者を「大人」とみなす年齢的なハードルは、むしろ上がっているかもしれません。

(たとえば大人は、19歳の大学2年生と20歳の大学3年生で、何か扱いを変えてきたでしょうか。18歳から成人となれば、大学生は「成人」です。しかしながら、社会全体としては、彼らは「大学生」の範疇にくくられています。どれほどの大人が、大学生を「学ぶ成人」として扱っているでしょうか。)

 

あるいは、上の文の「社会」を「親」に、「若者」を「わが子」に置き換えてみると、どうでしょうか。

親がわが子を「大人」として扱いだす年齢は、おそらく、かつてよりも上がってきているはずです。

 

法的に成人したとしても、精神的に、あるいは経済的に依存している状態が続く、ということは、

今の時代、もはや珍しいことでもないのかもしれません。

 

 

ですが、「大人となる」ことの最大の果実のひとつは、この「自立」にあるのではないでしょうか。

 

「自立」というものは、

ただ親元を離れ、あるいは両親と仲違いをして疎遠になる、といったことではなく、

 

自分の意思で、自分の将来を決め、

そこに向けて明日を切り拓いていく、という日常の繰り返しの上に成り立っているように思えてなりません。

 

 

「大人」の本当の楽しみは、

お酒を自由に飲めるとか、そういうレベルのことではなく、

責任を伴う自己決定をすることが許される立場になることだと感じています。

  

 

今、小学生の皆さんが「大人」になる頃には、

社会のあり方も、また変わっていることもあるかもしれません。

 

それでも、この「自立」というキーワードは、

基本的には不変のものではないでしょうか。

 

 

ここから10年少々で、

親子の関係が「どこに向かっていくのか(どのような状態になることを目指すのか)」を考えておくことは、

とても重要なことなのではないかと思います。

 

 

大切なのは、「自己決定力」をつける習慣を積み重ねていくことです。

 

日々の学習ひとつをとっても、

親きっかけの管理型の学習はほどほどに、

お子さまの自己決定を促していく意識が、必要かもしれません。

 

 

私は、かつての「元服」の時代を生きたわけではありませんが、

当時の人は、おそらく、「元服」に至るまでに、大人になるための精神的な準備を整えていたことでしょう。

 

「元服」というのは、

突如として、大人になることを強制されたのではなく、

周りの社会から、大人になることを認められた瞬間だったのかもしれません。

 

 

わが子が、大人として自立することを望み、その準備を整え切った状態で、

大人となることを安心して許すことができるような、

そんな「18歳」を迎えられることを意図しつつ、

残された10数年間を過ごしていくことが、

私たち「親」の務めなのかもしれません。

 

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藤田和彦