国語の文章読解の土台「○○」と「○○」を意識する。
新しい1週間がスタートしています。
小学生の皆さんは、今日からまた「平日のタイムテーブル」で、学習に取り組んでいってください。
本日は、先週末のアドバンスクラスでの「文章読解」から引き続いて、
「国語」の文章読解の理解を進めるためのポイントについてご紹介します。
国語の文章読解のポイント「主語・述語の関係を理解する」
「主語」「述語」というと、
文法問題、というふうに感じる方も、多いことかと思います。
それもそのはず、
学校での国語の学習(教科書の単元)においては、
「文章を読む」時間と、
「文法の学習」の時間が、
わかれていることがほとんどです。
そして、「主語」「述語」というと、
教科書の「文法」の箇所でまとめられているものです。
ですから、
「主語」「述語」については、「文法問題」であるという認識をしていることが多いのではないかと思います。
ところが、
この「主語」「述語」に関わらず、
文法の理解をすることは、
説明文や、物語文の読解について、大きな「戦力」になります。
本当なら、文法の知識は、
「文法問題」だけではなく、
「文章読解」にこそ活かすことができるものですが、
なかなか、そこまでの解説をしている問題集もありません。
それもそのはずで、
文法の理解というのは、文章読解をするための「土台」の部分であり、
そこまでを解答・解説に記載してしまうと、
解説の部分が冗長になってしまうからです。
ですから、
国語の問題集に取り組む際も、
解説を読んで、「ああ、そういうことか」という理解はできたとしても、
その解答に至るまでの「技術」の部分をつかむことは難しい場合があり、
別の問題に取り組む際の「再現性」がない、ということが、よくあります。
それでも、問題演習を繰り返していく中で、
知らず知らずのうちに、答えを導き出す技術をつかむことができる人が、
「国語のセンスがある」と言われるようになったり、
「なんとなく」で解くことによって、正答率に当たり外れが出てきてしまうことが、
「国語は得点が読みづらい」と言われる理由になっていたりします。
私自身、
学生時代は、まさに上記のようなことを感じていた張本人であり、
「国語の解答には一定の法則がある」ことにようやく気がついたのは、
その後、国語の文章読解の指導をするにあたって、解き方の説明を試みた時からでした。
(国語については、「教え合う」という機会が生まれづらいこともあり、学校での学習が進まなかった、という側面もあったと思います。ですから、お子さまの学習の際には、国語の問題こそ、「説明」をしてもらう機会を作ることが大切かもしれません。)
昔話はこのくらいにして、話題を「主語」「述語」に戻しましょう。
主語・述語の理解の基礎は低学年のうちから。
アドバンスクラスの皆様は、1年生の頃から、
「何が」「どうする」。
「何は」「なんだ」。
「何は」「どんなだ」。
という、文の3つのタイプについて学習しています。
最初の「何が(は)」にあたるのが「主語」で、
「どうする」「なんだ」「どんなだ」の部分が「述語」であるわけです。
この「主語」「述語」という言葉自体は、
低学年次には覚える必要はないですが、
無くなると、文の意味が通じづらくなる、「主語」と「述語」が存在する、ということは、
意識していくことができることが大切です。
そうすると、文章読解の理解がスムーズになるからです。
たとえば、物語文の読解のポイントを1文でまとめるとすれば、
「場面」ごとの「登場人物」の「言動や心情」の変化(移り変わり)を、因果関係に着目しながら押さえていくこと。
となるのですが、
ある発言や行動が「誰がしたものなのか」を理解することや、
登場人物についての描写やエピソードを「誰について書かれているものなのか」を把握しておくためには、
「誰が(は)」、つまり主語の部分に着目をしながら文章を読み進めていくことが、必要不可欠です。
(すでに、文章読解が得意だ、という人は、無意識にでもそれができているはずです。)
そんなに大切な「主語」と「述語」なのに、
先ほども、「主語」と「述語」は、
それがないと文章が成り立たなくなる大切な骨格の部分だということを書きましたが、
それなのにも関わらず、
日本語においては、「しばしば主語が省略される」という現象が起こります。
それは、特に会話(文)において顕著に現れます。
たとえば、ある物語文において、
掃除当番をを押し付けて先に帰ってしまった真子(仮名)がいなくなった教室で、残された「私」が、
「ホント嫌なやつ。ムカツク。」
とつぶやいたとします。
この場合の私の発言を見てみると、
「(真子は)ホント嫌なやつ。」ということなので、
文としては、「何は」「なんだ」ということになるのですが、
主語にあたる「真子は」という部分が抜けています。
もし、「ホント嫌なやつ。」の部分に下線が引かれていて、
この時の「私」はどんな気持ちか、などと問われる問題があったとしたら、
「(掃除当番をやらずに先に帰ってしまった)真子に対して腹を立てる気持ち。」
などという表現になるでしょう。
(制限字数や解答欄によって、()内の記述を追加する部分です。)
当然、文脈から「私」が腹を立てているのは「真子」に対してであることはわかるはずですが、
そこに下線が引かれていた場合に、
「どう言った言葉を補う必要があるか」と考えたときに、
発言では省略されている「真子についての思い」についてまとめれば良い、ということがわかります。
「主語」という着眼ポイントがなければ、
解答欄に書く答えに、何を優先的に盛り込めば良いかは、「感覚」に頼るしかないかもしれません。
「主語」「述語」への意識は伝わる話し方の土台にもなる。
余談ですが、
主語を抜かして話すことは、日常会話においても、よくあることです。
主語がない言葉だったとしても、
文脈から、主語を類推して理解をしていくのが日本語の文化です。
なので、私たちは、自然と主語を補って会話の内容を理解していますし、
話す時も、主語を省略して話をすることが「普通」になっています。
ところが、
主語を省略することが、普通になってしまっているあまりに、
会話上の主語を、ことごとく「省略」してしまうことが、ままあります。
何気ない日常会話くらいなら、まったく問題ないのですが、
少し、複雑な状況を説明するときとなると、
聴く側にとって、いちいち主語を類推して、主語を補いながら話を聞くことが、大変になることがあります。
複雑な状況を説明する時や、
伝えたい内容を、はっきり理解して欲しいような時は、
意識して、「主語」となる言葉を入れながら話していくことが大切です。
そうしないと、
「なんとなく伝わっている」
「なんとなく理解している」
という「なんとなく」の相互理解が、
フタを開けてみたら、実は全く伝わっていなかった、というふうになりかねません。
言いたいことが、うまく伝わっていないかもしれない。
そんな時は、「主語」について意識するだけで、
言いたいことが、より確実に伝わるようになるかもしれません。
お子さまに、何かを伝える、というときにも、
ぜひ、「主語」に気をつけてみてください。
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